少し時間がとれたので更新を。


嶽花氏から、自身の行動には見合わない感謝を送られているようで恐縮だ。
レスポンスの文章から少し触発されたので、批評と言う事に関しての私見を述べようと思う。


批評と言う行動を一番客観的に、批評される人間、被批評者に対して一番有効な批評を行える人間は、その対象に興味を持たない人間だろう。
冷静な視点と言う一点に於いて、その対象に一切感情を抱いていない人間が、最も温度の低い視線を送る事が出来、最も温度の低い評価を下す事が出来るだろう。
温度の低い評価と言うのは、つまらなかったと言う評価ではなく、面白くもつまらなくもなかったと言う評価と言う事だ。
評価の対象を面白いと思った人間は面白いと思った部分を語りたがり、つまらないと思った人間はつまらなかった部分だけを語りたがる。
何より問題なのは、その言葉を受けた被批評者の対応だ。
面白い、つまり好意的な評価ばかりが在れば溺れ、否定的な評価ばかりならば行動を起こす事、つまり作品の製作をやめてしまうだろう。
ならば、双方の意見が同程度あれば良いのではないか、そう考える人間もいるだろう。だが、その場合も被批評者は好意的な評価に溺れやすくなる。
どう言う事かと言えば、否定的な意見を送った人間に対し、
「こいつは俺の作品の事がわかっていない」
と言うような思考パターンに陥る場合が多いからだ。


ただし、完全に冷静な視点で言われた意見に対し、被批評者が深く耳を傾ける可能性が少ない事もまた事実である。
被批評者の度量の問題と言う一言で片付けるのは簡単だが、被批評者の耳を傾けさせる為にはどうすれば良いのか、技術的な事を口で言うのは簡単だ。
評価するべき所は評価し、否定するべき所は否定すると言う事だ。
それに必要なのはただ一点、対象を良く知る事だけだろう。
例えば、一度読んで面白かった文章も、二度目に読んだ時にはまた違った視点が現れる事が多い。
今現在、批評サイトに対する需要と供給は共に低いと思われる。
割と様々なサイト群で宣伝されたこの豺狼の路の批評対象者募集に対し、応募した二サイトが埋まるまでにかなりの期間があった事が証拠になるだろう。
だが、もし批評サイトを始めようと思った人間がいるのなら、行動の割に報われる事の少ない、さらに多大な時間を消費する事だと知った上で始めるのが良いだろう。


批評サイトが短命な理由の一因は、確実に行動に見合っただけの評価がなく、更には冷静な視点を失わない為に交流を最小限に抑える必要性から、批評それ自体を自己存在証明とするような希有な人間もおるまい。
おそらく長期間の継続が可能な批評サイトは、批評を主にしていないサイトではないだろうか。